「ルクレツィア・ボルジア」のオケ合わせが無事に終わりました。
今回は少人数のアンサンブルですが、それでも弦楽器や管楽器と一緒だと普段以上に息が流れて歌いやすい気がして(気がするだけかも?)、特にベルカント作品ということもあり、よりオケと歌える喜びを感じながらオケ合わせを楽しむことが出来ました。
さて今回の「ルクレツィア・ボルジア」公演に出演の打診を頂いた時点で、慣習により通常(10〜20年くらい前まで)はカットされていたジェンナーロ役=テノールのアリア”T’amo qual s’ama un angelo”をカットせずに歌うことが提案されていました。このアリアはこの作品の初演の時には存在しておらず、数年後に再演された際に当時の重要なテノール歌手の1人であるニコラ・イワノフ(ロシア=ウクライナ生)のために、ドニゼッティの既存の作品(1838年作「ローマ家のエウストールジア」)から転載して挿入されました。優れた歌唱技術を待ち合わせたイワノフだからこそ聴衆に受け入れられたであろうこのアリアは彼の後には歌われることなく、リコルディ出版のスコアにも掲載されなかったことから後世のテノールが歌う手立てが無い”幻のアリア”となっていましたが、1960年代末からこの作品の再評価され始めた流れの中で、スペインの大テノール歌手アルフレード・クラウスが復活上演し、見事な歌唱技術と説得力溢れる表現で一躍この作品の聴きどころとしてこのアリアは世界的に認知されるようになりました。
しかしその後もこのアリアの部分だけ楽譜が出版されない状態が続いたため、”一般に非公開の楽譜でも手に入れることの出来る世界クラスの限られた歌手”しか歌う機会がありませんでしたが(2006年にスカラ座でのファン・ディエゴ・フローレスのテノールリサイタルで初めて生のこのアリアを聴きました。)、数年前にリコルディ社から批判校訂版が出版されたため、ようやく晴れて誰もがこの幻のアリアの楽譜を手に取ることが出来るようになりました。
長年慣習でカットされていた「セビリアの理髪師」の大アリアと同じく、特定のスーパーテノール(「セビリア〜」はマヌエル・ガルシア、「ルクレツィア〜」はイワノフ)を想定したアリアはやはりカットされるだけの理由があり、この”T’amo qual s’ama un angelo”も自分にとっては歌唱技術的に最高難度の部類に入ります。まるで平均台や綱渡りの綱をゆっくり歩くかのように、自分の声のテクニックを少しでも間違えると1小節も進まずにたちまち崩壊してしまうほどです。また、「セビリア〜」の大アリアと違って途中に休める箇所(間奏)が無く、一度でも歌のバランスを崩すとリセットして仕切り直す部分が無いため最後まで辿り着くことも難しくなります。
ロッシーニのようなアジリタ(細かい音符の羅列)は無いものの音域は常に高く、最高音のC、4つのB♭はもちろんのこと、10回のAと5回のA♭、そして29回(!)のGが必要と聞くと、テノールを学ばれたことのある人なら、いかに大変そうな曲か想像してもらえるかと思います(笑)。
昨年批判校訂版の楽譜を購入し直してから約半年、特にこのアリアを重点的に練習して来ました。慣習に沿ってカットすることも出来たのでしょうが、作品全体を見た時にもともとジェンナーロ役にはアリアが無く、このアリアがあることで役の重要度が格段に上がると共に、その役作りにおいて深みや奥行きを表現することが出来るように思います。(実際、このアリアが無い上演ではジェンナーロ役に二線級のテノールがキャスティングされることが多いのですが、アリア有りの上演では間違いなく世界的なプリモ・テノール=主役級の名前があり、歌の見事さはもちろん演技も含めた役柄の表現力の素晴らしさでその違いを見せてくれます。)
5/3の本番ではなんとか自分の納得行くレベルでの歌唱が実現出来たらいいなと、残り数日のコンディション調整に励みたいと思います。もしかしたら日本人テノール初のこのアリアの上演機会になるかも?だそうですので、テノールマニアの皆様やベルカントオペラにお詳しい皆様はどうぞ台東区生涯学習センターミレニアムホールへ「お見届け」にご来場下さい。(聴きに来てくれる人に緊張する余裕が無いほど、このアリアを歌い切ることへのプレッシャーが強いということです!!)
(写真大:本人撮影のオケ合わせの風景。男声キャスト&合唱の見せ場が多いのもこの作品ならでは! 左下:本文で紹介したアルフレード・クラウスがこのアリアを歌っているところ。「スペインの至宝」と謳われたクラウスは、あの三大テノールのもう一つ上のランクにあると言われるほどの歌手で、特にベルカント作品のジャンルでは模範的、理想的な歌唱により世界中で称賛され続けました。 下中:留学時の2006年にミラノのロシア大使館主催の「N.イワノフ記念コンサート」に出演した時に、記念品として贈呈してもらったイワノフの評伝本。この時にこのアリアの存在と特殊性を知ってから20年弱を経て、まさか自分が歌う機会が来るとは… 右上:批判校訂版の楽譜。長い前奏がとても感動的です。 右上2段目から下へ:ニコラ・イワノフ(1810〜1880年)の肖像画や写真。イワノフはあのロッシーニのお気に入りのテノールとして知られ、その輝かしいキャリアはロッシーニの強力な後ろ盾があったからこそかもしれません。ロッシーニの臨終をベッドの側で見届けた一人でもあり、ロッシーニ作品はもちろん、ドニゼッティやヴェルディに至るまでの様々な作品の初演で主役テノールを務めたのですが、優れていたとはいえ実力以上のキャリアを重ねられたのは当時のヨーロッパ楽壇の圧倒的な存在であった「ロッシーニの威光」が関係しているように思います。私は上記の「イワノフ記念コンサート」でヴェルディが彼のために差し替えた「エルナーニ」と「アッティラ」の2つのアリアを歌いましたが、おそらくヴェルディを歌うには軽過ぎる声だったイワノフのために、彼を寵愛するロッシーニがヴェルディに頼んで彼の声に適した別のアリアを作らせたとされています。ちなみにその2曲とも、とんでもなく難しかったです!)