プログラム最後はフランスの作曲家から、まずはトマの繊細で美しい歌曲です。
アンブロワーズ・トマ(1811〜1896年)はドイツと国境を接するフランス・メスの出身。パリ音楽院で学びイタリアに3年間留学した後、母国でオペラ作曲家として名を成し45歳で母校のパリ音楽院に作曲の教授として迎えられています。そこで教育者としてジュール・マスネ(今回のリサイタルの最後に紹介する作曲家です。)をはじめ優れた門弟を育てましたが、オペラ作曲家としては一旦活動が減退し、およそ10年後に歌劇「ミニョン」で復活の成功を収め、直後の歌劇「ハムレット」の連続成功で揺るぎない名声を確立しています。
晩年はパリ音楽院の院長に就任し、84歳で亡くなるまで在任しました。作曲家としても教育者としても成功を収めた稀有な”二刀流”の音楽家とも言えるかもしれませんね(ほとんどの音楽家の場合、どちらかで成功するともう片方ではうまくいかないものです)。なお、2歳年下で87歳まで生きたイタリアのヴェルディとはほとんど同じ時代を過ごしたことになりますが、今回あらためて二人の作品を同時に練習していると、その音楽性や作曲様式には大きな隔たりがあるように感じます。
この歌曲『夕べに Le soir』はトマが「ミニョン」や「ハムレット」でも台本作家としてオペラの創作作業を共にした、ミシェル・カレの1842年出版の処女詩集「Les folles rimes et poèmes (おかしな韻文と詩)」の中の一節に作曲したものです。カレはトマ以外のフランス人作曲家にも数多く台本を提供していて、オッフェンバックの「ホフマン物語」、グノーの「ファウスト」「ロメオとジュリエット」、ビゼーの「真珠採り」など、現在でも世界中で上演されるフランスオペラの人気作品と共にその名前は生き続いています。
トマの歌曲からこの1曲を選んだのはカレの詩だったことも理由の一つで(もちろんその極めて耽美な楽曲そのものへの個人的な好みも大きな理由)、自分がこれまで主演したフランスオペラのレパートリー「ホフマン物語」「ファウスト」「ロメオとジュリエット」の3作品の全てが偶然、カレの台本という”ご縁”があったからです。この『夕べに』の短い詩は、毎節ごとに決まった箇所で韻を踏む様式美を保ちながら日没の夕暮れの恋人たちを描いているのですが、オペラの台詞にも出てきそうなそれぞれの単語からは繊細かつダイナミックなロマンティシズムを感じますね。
自分にとってももちろん初めて歌う曲ですが、お客様でも初めて聴かれる人がほとんどではないでしょうか。プログラム前半の『追憶』と呼応する、後半随一の幻想的な歌をしっとりと歌ってみたいと思います。
(歌詞)
燃えた大地は天から落ちる露を待つ。
熱気は和らぎ、人々は穏やかにため息をつき、
小鳥はより上手に歌う。
幸せな恋人たちを木の葉の黒い影が覆う。
そしてその影のベールを横切って、
いくつかの星が恋人たちに語りかけるのだ。
(※写真右上:曲のイメージ。なお原題のフランス語「le soir」には「夕べ、夕暮れ、夕方、夕景、黄昏」などの邦訳があります。 写真右下:作曲のトマ(左)と作詩のカレ(右)。二人とも、これ以外の写真も総じて表情が厳しかった。)